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東京地方裁判所 平成元年(ワ)5590号 判決

原告

甲石信男

甲石美佐子

右両名訴訟代理人弁護士

里村七生

三浦宏之

片岡義貴

被告

東京都

右代表者知事

鈴木俊一

右指定代理人

中村次良

外一名

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  請求の趣旨

被告は、原告ら各自に対し、それぞれ二一九五万三二〇四円及びこれに対する昭和六二年九月二八日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  事件の概要

原告らの二男甲石一郎(以下「甲石」という。)は、昭和六二年九月当時、被告の設置に係る東京都立本所高等学校(以下「本所高校」という。)の第二学年に在籍していたが、同校を退学させられた乙川二郎(以下「乙川」という。)並びに同校第二学年に在籍していた丙藤三郎(以下「丙藤」という。)、丁野四郎(以下「丁野」という。)及び戊田五郎(以下「戊田」という。)らによって、同月二七日午後、東京都葛飾区〈住所略〉桜コーポ二〇五号において、手拳、木刀等により集団暴行を加えられ、同日午後三時五〇分ころ、右同所において、外傷性ショックにより、死亡するに至った。

2  被告の安全配慮義務違反

(一) 被告は、本所高校の設置者として、同校の校長はじめ職員全体をして、同校に在学する生徒に対し、その生命、身体、健康等の安全と健全な発達を促す義務がある。

(二) 甲石、乙川、丙藤、丁野、戊田らは、昭和六一年四月、ともに本所高校に入学したが、その年の二学期ころには、乙川を中心にグループを形成するに至った。

乙川は、暴力で甲石ほか右グループの少年らを支配し、自分に従わない者、グループから抜けたい素振りを見せる者に対しては、暴力を加え、あるいは他の者に集団暴力を加えさせていたが、昭和六二年五月には、戊田に失明寸前の傷害を負わせる暴行を加えた事件が発生し、その結果、本所高校は、乙川を退学させるに至った。

(三) 本所高校の校長福田呂久爾及び甲石の担任教諭臼井宏之(以下「臼井」という。)らは、いずれも、右グループの存在はもとより、右グループが乙川を中心に構成され、乙川以外の者は、性格的に弱く乙川に反抗することができないこと、乙川が甲石ほか右グループの少年らを暴力的に支配していることを承知していた。

そして、乙川は、退学後、退学に反発し、以前にも増して暴力的支配を強め、甲石ほか右グループの少年らに対し、集団暴行を加えるようになった。同年九月には、甲石の顔面、足等に怪我が目立つようになり、心配した原告甲石美佐子(以下「原告美佐子」という。)が、担任教諭臼井に対し電話で問い合わせるなどしていた。

このような場合、右グループの存在をそのまま放置すれば、在学生の生命、身体、健康に重大な危害が生じることを予測することができたはずであるから、同校校長及び担任教諭らは、右グループを解体させるため、適切な指導、処置をする義務があり、乙川を退学させた後も、他の在学生が乙川の支配から逃れたかについて、注意深く観察し、指導援助を強める義務があった。

しかるに、校長らは、実際には単に乙川を退学させたに止まり、甲石ほかの在校生に対し、乙川との関係を断たせるための指導教育を全くせず、また原告ら父母に何の情報も与えずに放置したのであり、この怠慢さが、本件グループを存続させ、悪化させ、遂には本件事件を防止し得なかった最大の原因である。

(四) このようにして、被告は、その安全配慮義務違反により甲石の傷害致死という結果を招いたのであるから、原告らに対し、これによって生じた損害を賠償する義務がある。

4  損害

(一) 得べかりし利益

甲石は、死亡当時年令一七年で高校二年在学中であったから、当時の新高卒全労働者平均年収入四〇五万七七〇〇円をもって、一八年から六七年まで稼働することができた。

その間の生活費として五〇パーセントを控除し、更にライプニッツ方式で中間利息を控除すると、得べかりし利益は、三五一〇万六四〇八円になる。

(二) 慰謝料

本件が集団暴行という痛ましい事件で生じたことを考えると、二〇〇〇万円が相当である。

(三) 葬儀料

一〇〇万円

(四) 弁護士費用

原告らは、本件訴訟のため、弁護士費用として、本件請求額の約一〇パーセントの四〇〇万円の支払を約した。

(五) 損益相殺

原告らは乙川以外の加害少年及び親権者らとの間に、総額二九〇〇万円の支払を受ける旨の和解をし、右のうち合計一六二〇万円を既に受領した。

原告らは各自、前項記載の損害金のうち、(一)、(二)の各二分の一を相続し、(三)、(四)の各二分の一を分担したので、(五)の受領金額の二分の一を控除した二一九五万三二〇四円の各損害賠償債権を、被告に対して有することになる。

5  よって、原告らは各自、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償金としてそれぞれ二一九五万三二〇四円及びこれに対する不法行為の日の翌日である昭和六二年九月二八日から支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1のうち、甲石が原告らの二男であること、同人が昭和六二年九月当時被告の設置に係る本所高校の第二学年に在籍していたこと、乙川が本所高校の退学生であったこと、丙藤、丁野及び戊田が本所高校二年に在籍中であったこと並びに甲石が同月二七日に死亡したことは認めるが、乙川が退学させられたとの点は否認する。その余は知らない。

2  同2のうち、甲石らが昭和六一年四月にともに本所高校に入学したこと及び乙川が昭和六二年五月に戊田に対し傷害を負わせる暴行を加えた事件が発生したことは認める。乙川が、暴力でグループの少年らを支配し、自分に従わない者、グループから抜けようとする者に対して、自ら暴力を加え、あるいは他の者に集団暴力を加えさせたこと、乙川が戊田に対し失明寸前の傷害を負わせる暴行を加えたこと及び本所高校が乙川を退学させたことはいずれも否認する。二学期ころ乙川らがグループを形成したことは知らない。その余は争う。

3  同3は争う。

4  同4は知らない。

三  被告の主張

1  公立学校の校長及び教師が負う、親権者等の法定監督義務者に代わって生徒を保護監督する義務の範囲は、性質上、学校における教育活動及びこれと密接不離の関係にある生活関係の範囲に限局されるというべきであるところ、本件傷害致死事件は、文化祭当日ではあったが、学校外で生じたものであり、学校が法律上の義務を問われるような範囲に属しない。

2  乙川は、昭和六一年五月九日及び九月八日に殴打事件を起こしているが、いずれもどちらかといえば軽易かつ単発的であって、教師らが強く指導した結果、乙川も暴力行為が人間として許されるべきでないことを知り、心から反省していたものと考えられる。また乙川が本所高校を退学する契機となった昭和六二年五月の戊田に対する傷害事件についても、乙川は、退学処分を受けるよりは、自ら退学したい旨申し出、学校もこれを許可したものであるから、将来重大な事件が起こることを予測することができなかった。

3  教師らが、乙川の退学後、他の生徒らの顔、手などの傷の原因を尋ねた際、生徒らが暴行されたと訴えたわけでもなく、傷害の程度は生徒らの説明する事情に合致していたのであるから、教師らにおいて直ちに本件傷害致死事件の発生を予知し得なかったとしても、無理がないというべきである。

4  要するに、本所高校は、本件グループは登下校などを一緒に行う仲良しグループ程度のものであるとしか認識していなかったのであって、グループとしても、あるいはグループに属する生徒個人としても、本件傷害致死事件の発生に至るまで、他の生徒に対し恐喝を働いたりしたことなどはなく、せいぜい殴打などが単発的に、しかも稀に生じたにすぎず、また、原告らの主張するような、本件グループが暴力的に支配されていると認められる徴候が一切なかったのであるから、教師らにおいて、殴打事件と異質な本件傷害致死事件の発生を事前に予測し得るはずもなかった。

まして、乙川は本件傷害致死事件当時本所高校を退学しており、教師らにおいて、その動静をことごとく察知して行動を規制し、本件傷害致死事件の発生を未然に防ぐなど到底できるはずのないことであった。

理由

一〈証拠〉によれば、原告らの二男の甲石は、昭和六二年九月当時、被告の設置に係る本所高校第二学年に在籍していたが、同校を既に退学していた乙川を首謀者とし、同校第二学年に在籍していた丙藤、丁野、戊田らを共犯者として、これら少年によって、同月二七日午後、東京都葛飾区〈住所略〉桜コーポ二〇五号の丙藤の部屋において、手拳、木刀等により集団暴行を加えられ、同日午後三時五〇分ころ、右同所において、外傷性ショックにより、死亡するに至ったとの事実を認めることができる(以上の事実中、甲石が原告らの二男であること、同人が昭和六二年九月当時被告の設置に係る本所高校の第二学年に在籍していたこと、乙川が本所高校を既に退学していたこと、丙藤、丁野及び戊田が本所高校の第二学年に在籍中であったこと並びに甲石が同月二七日に死亡したことは当事者間に争いがない。)。

二原告らは、被告は、本所高校の設置者として、在学生に対する安全配慮義務を負うところ、本件傷害致死事件は、右義務違反によって招来されたものであると主張する。

ところで、〈証拠〉を総合すれば、本件は、被害者である甲石がグループのリーダー格である乙川に従わず、グループから離脱しようとしたことから発生したものと推測され、乙川の指示による集団暴行であること、首謀者である乙川は、昭和六二年五月に既に本所高校を退学して、同校の指導監督が及ばなくなっており、本所高校としては、その動静を逐一把握して、その行動を統制することはできなくなっていたこと、集団暴行が敢行された場所は、丙藤の自室であって、学校から電車で三〇分ないし四〇分の離れた場所であり、学校の管理する場所でないこと、しかも、当日は本所高校の文化祭の日で、本所高校は生徒の出欠を取った上、生徒に対し無断で学外に出ることを禁じていたにもかかわらず、甲石ほかの少年らは登校後に出欠を受けた後、無断で外出し前記場所に赴いていたことが認められる。

これらの事実によれば、本件傷害致死事件に関与した者が、乙川以外は皆本所高校の生徒であっても、また甲石ほかの少年らと乙川との交友関係が乙川の在学中からのことであったとしても、本件傷害致死事件は、その性質上高校における教育活動及びこれに密接に関連する範囲内において生じたものであるとは認め難いところである。

三原告らは、それにもかかわらず被告に安全配慮義務違反があったとする根拠として、学校側としては本件事件が発生することを予測することができたと主張するので、以下にこの点について検討する。

1  まず、原告らは、乙川は甲石ほかのグループの少年らを暴力的に支配していたものであり、本所高校の校長福田や担任教諭臼井らはこのことを承知していたと主張する。

しかしながら、〈証拠〉を総合すれば、以下の事実が認められる。

(一)  本件グループの少年らは、少なくとも学校においては、教室前の廊下等でかたまるとか、掃除をしなかったり、朝礼に欠席したり、授業を抜け出したりする程度の問題行動をとることはあったが、これらの少年の言動には、原告が主張するような、乙川が暴力によって支配しているグループであることを特段感じさせるようなものはなく、学校側もそのようなグループとしては認識していなかった。

(二)  確かに乙川は、昭和六二年五月に戊田に傷害を負わせた殴打事件を含め、在学中三回にわたり暴行傷害事件を起こしているものの、これらは、いずれも単発的なものであって、甲石の傷害致死を招いた本件のような集団暴行と共通性を有するものではなかった。

(三)  乙川個人についても、在学中、校則違反などを注意されれば、一応素直に改めており、教師に対して反抗的態度をとったのも、前記戊田への殴打事件の際に、乙川の担任であった赤間洋子教諭が事実関係を問い質した時くらいであり、同教諭をはじめ学校側としても、乙川が同級生から嫌われ者であり、本件グループの少年以外に友達がいないことは認識していたものの、乙川が他の生徒に特段恐怖感を抱かせる存在であるとは認識していなかった。

(四)  甲石ほかのグループの少年らの父母から学校側に対して、乙川と尽き合わないようにしてほしいとか、他の生徒から学校側に対して、右グループは暴力的で危険であるから解体してほしいというような要請も格別されたことはなかった。

右事実からすれば、乙川の退学の時点において、学校側としては、そもそも乙川が暴力で自分の友人達を支配していること、あるいは乙川が友人達に不断に暴行を加え続けていることなど、乙川が周囲の人物に危害を及ぼす可能性があり、特別危険な人物であるとの認識をもち得なかったというべきである。

2  次に、原告らは、乙川が退学後、退学に反発し、暴力的支配を強めたと主張するが、本件において、乙川の退学が原因となって同人の非行化が進行したり、同人の暴力的性向を強めさせることとなったと認めるに足りる証拠はない。

3  また、原告らは、昭和六二年九月には甲石の怪我が目立つようになり、原告美佐子が担任教諭である臼井に電話で問い合わせることもあったのであるから、学校側としては、本件グループの存在をそのまま放置すれば、在学生に重大な危害が生じることを予測することができたはずであると主張する。

しかしながら、〈証拠〉を総合すれば、以下の事実が認められる。

(一)  臼井は、昭和六二年九月上旬、副担任の萩原教諭から、甲石が顔に怪我をしているとの連絡を受け、その際、「本人は兄に殴られたと言っているが、けんかでもあったのではないか。」と言われたので、甲石を呼んで話をしたところ、甲石は、怪我について「何でもない。けんかではない。」と説明した。

(二)  甲石は、九月一六日ころと二二日ころに、いずれも顔を腫らせて帰宅したことがあったが、臼井が同月二二日及び二四日に原告美佐子に電話をし、甲石が学校の掃除をしなかったことや無断欠席したこと等を話にした際、原告美佐子は、甲石の右怪我の点については、格別話題にすることがなかった(〈証拠〉中右両日とも電話で臼井に甲石の怪我について話をした旨の部分は、〈証拠〉に照らしにわかに信用することができない。)。

(三)  また、前記九月二二日の電話の際、原告美佐子は、臼井に甲石が再び乙川と行動を共にし、夜遅く外出するという話をしたが、これは甲石の負傷に関連させたものではなかった。

(四)  甲石は、九月二五日、臼井に対し、前記(一)の顔面の負傷について、「本当は、バイクに乗っていたら、見知らぬ連中に殴られた。」と述べ、従来と異なる説明をしたが、乙川に殴打されたことについては何ら臼井に話さなかった。

(五)  また、本件傷害致死事件のあった九月二七日、臼井は、原告美佐子から昨夜甲石が足を怪我して帰宅したことを心配している旨の電話を受け、間もなく登校して来た甲石自身に足の負傷について問い質したが、甲石はそもそも足に負傷している事実を否認したため、もし甲石が真実負傷しているのであれば、登校しないものと考え、それ以上の追及を避けた。

(六)  原告美佐子は、九月初め以降、度重なる甲石の怪我や臼井からの電話に照らし、甲石の周りに何かいじめのようなものが起きているのではないかという漠然とした不安を抱いていたと思われるが、原告美佐子自身においても、具体的に乙川らによる暴行という事実を把握していたわけではなかった。

以上の事実によれば、臼井は、本件傷害致死事件が発生するまで、原告美佐子から、甲石が乙川と交際し、夜間外出していること、怪我をして帰宅したことがあること、原告美佐子が甲石に学校で何かあるのではないかという漠然とした不安を抱いていることについては伝えられていたものの、怪我の原因が乙川の暴行によることまでは伝えられておらず、また、甲石自身も臼井に対し、乙川から暴行を加えられたことは最後まで隠していたのであるから、学校側としては、当時得られた情報から乙川らのグループ内の者に対する暴行の実態を把握することはできなかったものというべきである。

以上に認定したところによれば、学校側としては、本件事件が発生するまで、甲石ほかのグループが乙川により暴力的に支配されていたことや、甲石が乙川又は右グループの少年らによってしばしば怪我をさせられていたことを知り得る状況にあったとは認め難く、したがって、本件のような異常な事件が発生することを予測しなかったとしても止むを得なかったというべきである。

四また、原告らは、校長らは、乙川を退学させたに止まり、甲石ほかの在校生に対する指導教育及び父母に対する情報の提供を怠ったとも主張する。

しかしながら、高校生に対する指導教育は、小中学生に対するそれとは異なり、生徒の判断力を尊重し、個々の生徒が抱える問題の解決についても、その自主性、主体性に委ねる要素が大きくなるのは当然のことである。したがって、生徒が怪我をしていたからといって、その原因について生徒から一応合理的説明がある限り、さらに教諭において、生徒に対しその詳細について逐一尋ねるということは、必ずしも常に好ましいものではなく、これを差し控えたとしても、直ちにこれを論難することはできないというべきである。

また、〈証拠〉によれば、臼井は、授業や遠足に出なかったり、掃除をしない等の問題行動を取る生徒に対しては、個別に注意し、とりわけ昭和六二年九月以降は本件傷害致死事件に至るまで、甲石に関して、原告美佐子と連絡を取り合い、掃除や夜間外出の点など甲石の生活態度について気付いたことを指摘し、また、甲石自身とも話し合いの機会を頻繁に持ち、折りに触れ怪我のことも問い質し、また三者面談も文化祭後に実施することを提案していたと認められるのであるから、臼井としては、担任教諭として、学校教育に関連する範囲で、甲石の安全等に対するそれなりの配慮はしてきたものと認められる。

したがって、原告らの前記主張も理由がない。

五以上を総合して判断するに、本件事件は、退学生を首謀者として学校外で起きた異常な事件であり、学校側としては、その発生を予測することができなかったとしても止むを得なかったのみならず、甲石ら在校生に対する指導教育や父母に対する情報の提供もそれなりに行っていたと認められるから、被告に安全配慮義務違反があったと認めることはできないというべきである。

六そうすると、その余の点について判断を加えるまでもなく、原告らの本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官青山正明 裁判官永田誠一 裁判官田代雅彦)

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